はじまり
妻は、子を産む体験はないが、
育てる事はしましょうと言う、将来には相続の争いがないように1人にしましょうと言う。
僕も母を亡くした後だったので、
そうしようと積極的に答えた。僕の母の特殊な生い立ち(養子で養育された)もあり、1人の子を救う気持ちとなった。救うと言う義務、仕事をすると言う気持ちが、100%であった。
都の福祉課に出向いて、私たちの概要を話した。
住まいは、阿佐ヶ谷ですか?ハイそうです。買ったばかりの下駄履きアパートで、1階に住んで、2階は4世帯の賃貸しにしました。
初めて買った不動産です。銀行から不動産なしでは会社に融資はできませんと言われて、経営=不動産取得でした。
有り金を集めてローン返済計画をたて、4000万円の自宅兼アパートを買いました。不動産を買えば上がる時代でした。
養護施設は、阿佐ヶ谷にありました。
あまりの偶然、何かの計らいが?
役所の担当は、とっておきの子がいます。この春3月過ぎると養子制度外になるので、見てください、会ってください、その子が気に入ったら、考えて下さい。
2人して会いに行った。★也が出てきた。車で1時間ほど施設の案内で出会いの時間を過ごした。翌日、きて下さい。施設の人の声。翌日、施設に着くや、施設の端の廊下から、本当に、遠くから、パタパタパタパタ と、★也くんが飛んでくる、そして、どーんと、抱きついてきた。これがサインだった。
神谷さん、よろしくお願いします。
良いですか。とりあえず、1か月一緒に過ごして下さい、家庭裁判所の調査官が訪れますから、そこで審査判定が、出てから、特別養子裁判が裁判長と調整官と神谷さん夫婦で行われます。
そんな経過を経て、★也は日本初の特別養子となった。
家は、西部線清瀬の手前のひばりヶ丘に、新築を買いました。会社の事業はとりあえず順調でした。新しい家に★也を迎えて3人の生活はこうして始まりました。
事件簿
★也を法的な子供として一緒に住み始める。
何かおかし、抱っこ抱っこは、愛情不足で育つ子の一番の特徴なのはわかっていたから、いつも抱っこしてあげた。
風邪をひき過ぎる、3才なのに舌が回らない、体がカチカチなのです。車に乗せると泣き出す。ポールが取れない。これはどうにかしなければと思った。
①正常な健康の子供の「体と脳」に変えることが仕事でした。障害児だったのです。学習障害児や注意欠陥多動症は後の話ですが、その前に、「舌小帯短縮症」。
喉の奥の扁桃腺が異常に大きいと言われ、風邪ばかり引くのはそのためだと、複数の医師を訪ね回りました。そしたら、名前は忘れましたが、ある医師から自分は診断治療できないが、この子は、舌の先から歯茎にかけて組織が伸びているために、舌の動きが制限されています。先天性の病気で、このままではこの子は自立できませんよ、と言われました。
私達は慌てた、青くなった。可哀想だ。何とか、治療出来る医者はいないか?調べるうち、昔は、お産婆さんが、舌を確認して、「つれ舌」を切って、治したと言う話を聞いて、調べるうち、大和市に舌の専門医がいるとの情報を得た。
大和市、舌、兎に角、藁をもすがる気持ちで、電話をしました。当たった。この子にはまだ未来があるのだ。と思った。胸が痛かった。同じような病の方々が沢山ベンチに座っていた。
神谷サンと呼ばれる。初老の先生が、早くて良かったね。といい、舌は切っとくから大丈夫、扁桃腺も取っておこう。大きすぎる。これは、多動性の原因なんですよ。少しは改善するでしょう。歌、歌えるよになりますから、話もできるようになるでしょう。はじめの難関は超えた。
②小学高学年
次は、注意欠陥多動性障害と発達性協調運動障害、無汗症、その特徴による波乱の人生です
勉強は、学科ごとに波があったが算数がいい成績なので、社会や国語が最悪点でも、いたずらと、クラスの笑わし屋で、それなりだった。
ただ、風呂に入らないのだ。汗をかかないのだ。1か月も入らない。垢が溜まっている。ものすごいぬるま湯ふろに無理やりつからせる。1時間、真っ黒な水になっている。
本屋で医学書を見て「先天性無痛無汗症」ネットがまだ進んでいない時代、本屋が僕の唯一の子育ての情報源。運動は、球遊びはまったくダメ。ドッチボールや野球は、見学。発達協調性運動障害だそうだ。遊び盛りにだが、先生からオミトされる。
難病を背負った子供。兎に角、救済、無汗症は体質だと考えて、諦めました。学校では不思議と人気者で、「うつ」な子や、本人もいじめっ子なのにいじめられた子と仲良しになっていた。
親友もでき、毎日、家に来て遊んでいた。2人とも、学校では札付きのいたずら仲間で、ピンポンと押して逃げる、ピンポダッシュで近所でも札付きの悪童。万引きで度胸試しもしていた。しかし、憎まれない子だった。
中学半ばからは
今では研究も進んでいますから、ああそれか、当時は医師もいません。児童相談所もメモ魔です、なんの支援もありません。兎に角、異常なのです。
目が鋭く。怖い時もあります。
本を漁り、たどりついたのが、注意欠陥多動性障害の反社会性タイプのページでした。これだ、この専門医はいないか?
専門医は、アメリカ帰りの司馬女医師。ウツと多動性障害専門の先生です。
武蔵野市にいました。電話。話をする。すぐおいでなさい。
答えは
ADHDです。反社会性障害児ですね、暴力団に入るか、薬を飲ませて皆んなについて行かせるか、日本の方針と違いますが、お父さんお母さん決断です。子供から目をはなさないように。今が、最も大事な時、子供の目が、鋭く睨むようにならないように、薬でコントロールするのです。
中学無事卒業、
司馬先生の武蔵野に3人で月1回通う2年。先生に、アメリカの学校はどうですか?聞くと即座に、アメリカにはAD H Dの子は沢山います。教育も整っています。でも、鳥を野に放つのと同じで何処へ行ったかわからなくなりますよ。★也君は色々これからありますが、この分野の優等生です。育てて下さい。
高校、横浜商科大学附属に
妻の努力で推薦入学。反社会性が際立つ、薬をくれる診断医はもう誰もいない。
①朝、起きない!毎日、毎日、朝おこすのが起きない。低血圧症なのだ。僕達への暴力も始まる。要求が満たされないと壁を打つ。そして、家の壁の至るところが穴だらけ、破壊する。怖い手がつけられない。警察にも厄介になった。
妻は、タペストリーを覚えて、大は四畳半から、小は30センチ角、30枚は作て、穴を美的にふさいだ。芸術の家、当時の家は、茅ヶ崎の大きな家に住んでいた。
②高校は2年で退学。
原因は校則破りの常習犯。寝てばかり、朝が起きられない。仲間を10人以上連れ込んでは、皆んなで眠り、サボり。
社員を家に泊まらせて、学校まで同伴。学校から僕に呼び出し。結局、徒労。退学、このままでは中学卒。
妻は、国の行政はおかしいと言う。難病を抱えた子に何のサポートもない。聞く機関も、人もいない。 ただ、法律で、あなたの子ですからと言う。僕達夫婦が産んだ子と同じ扱いなのだという。法的にはそうかも知れないが、何か根本的なところが違う気がしたのだろう。
③中学の彼女が、
私と妻が出かけて留守だと入り浸る。私がいる時も、2人で寝ている。彼女に声をかける。帰りなさい。家に来ないように!
結局、妊娠。女の子の親から通知。面談。結婚しかない。すでに6か月だと。結婚は無理、対策こうじて欲しい。
④彼女はいなくなつた。★也は発狂した。
あらゆるものを破壊し、号泣する日々が続く。
僕の会社の男に事情を話し、★也を運び、精神病院の診断を受けるため病院車に乗せる搬送協力を要請した。
⑤H病院の先生の診断
注意欠陥多動性障害児の反社会性の強い状態との診断で、反社会性の発作を抑えるために、精神安定の措置を病院で行いました。結局3か月の入院となつた。
⑥毎週妻と病院に会いに行った。病院診断は、今後の方向のアドバイスをもらう為てした。数学性と音などの分野は、優れているから、反社会性を抑えれば、道はあると言われた。
⑦退院後、東大医学部で実績の心療内科が茅ヶ崎にできた。
先生は、司馬先生と同意見の方だった。反社会性を薬で抑えて、自由業で生きて行く。反社会性の傾向は、40才ごろで少なくなるから、辛抱して、育てて下さいだった。
⑧妻は、親業の会に通った。子供と争はない、受け入れることを教わった。僕は、教育委員会に掛け合って、県立高校に1年遅れで入学させた。
⑨1年遅れで入った県立高校では、不良と言うか、変わり者で人気ものだったが、先生の困り者だった。そんな★也を救った一人の先生がいた。★也が卒業するまで、学校で待っていてくれた先生がいた。無償の恩人がいてくれた。無事に、高校卒の免除がもらえた。
ギター買えと妻に言う。
妻は何でもやってあげる方針のようだ。仲間が集まり、バンド結成。おかしないでたちで歌うビジュアルとか言うバンドで、事務所から月5万の、それでもプロバンドである。音符なしでギター弾くのは、★也の音感の成せる技だとわかっていたが、プロとは驚いた。
⑩彼女ができた。子供ができた。
アパートを彼女の実家の隣に借りた。18才未満なので親が保証人なり、印押した。何でも自由にさせた。バトンが仕事。収入5万。妻が、生活費を送る。★也を怖がりながらも何でもしてあげる妻。無償の愛としか言えない。
⑪.離婚、
バンド辞めなければ離婚です。彼女のお母さんから怒鳴りの電話。子供は引きとるから、慰謝料払え、です。結局、バンドは鳴かず飛ばずで、「社会問題バンド」に事務所が企画。意外と★也は、真面目。そんな企画でのバンドはやめると、パッとギターを捨てた。
⑫.職がない。
茅ヶ崎のカラオケ会社、それでも上場会社に受かる。残念、その会社がM&Aされ、彼は退職。定職に就くが1年、離職。
それから風来坊、警察に3度捕まる。弁護士料トータル500万。もう金がいくらかかったか忘れてしまいました。
★也は、仲間集め3人てアメリカブランド品を中国で作って、日本で売る事業をするという。彼には自由業がいい、医師言葉を思い出した。3人の生活費を出してあげる事にする。
会社名は「○○インスピレーション」。帽子ブランドをアメリカから入手、日本No1企業で採用決まる。順調な滑り出し、売り上げも右肩上がり。だが、突然の災難。コロナ感染症である。中国との取引が終わる。まだまだ、★也に運が巡ってこない。
彼女に子供。3度目。
もう、20を超えているので、自分達で結婚式。彼女の強い要請。普通に親族呼んで行った。妻が半額出したようだ?
結婚後も逮捕、小さな鏡で女の子を盗み見、今度は、不起訴で終わる。弁護料300万、嫁の親から今度で最後だ。又、あったら離婚させる。もう、子供2人いる。しっかりせよ★也!
⑬.妻所有の8世帯のアパートの2室を彼らが使う。僕の所有分は、アパートローンに組み替えて、彼が家賃から支払う事で、所有権を移転した。
妻の所有分は、生前贈与と売買契約で、★也名義に、移転した。これで、アパートとマンションの財産の移動はできた。僕の自宅は、譲与するつもりはなかったから、福島原発事故の時、福島で組合本部を移し売った。不動産の所有権移転には5年かかった。
妻は、売却でかかる税金をせっせと税理士の補佐でえる給与から僕に内緒で払っていた。★也への財産移転は長くかかった、養育の義務を終わらせる仕事だった。★也には、収入となるアパートを残す計画で買ったアパートでもあった。
購入時、2億円であった。当時の阿佐ヶ谷の自宅が高値で売れた。地上げ屋が買った。政府の等価交換政策で無税で売れたのだ。4000万が2億に化けた。
都内から都外物件特例が味方した。阿佐ヶ谷施設の★也、阿佐ヶ谷は僕たちの自宅である。妻は、これは★也のアパート。これは神様の贈り物。彼女は、東京女子大出でもある、愛と犠牲が学校教育テーマだそうだ。ハイ、僕もそう思う頑張ろうと言ったのを覚えている。
14、例のアパートである。30年がたつ。★也が10年住んで夫婦となって2個分で住む。残りの6世帯から収入が入る。2人の子の親となって★也が自立すれば、それが、僕と妻とが、義務を果たしたことになる。仕事が終了するのです。
不動産の権利書を★也に渡す。★也用に変更しておいた会社の実印を渡す。税理士も紹介した。
★也に言う。
君はわかっていると思うが、僕と妻から生まれた子ではない。これからは、完全に自立独立して下さい。
15.子のふりをする生き方を終えよう。自分の出自をたどって自立する。ぼろアパートに不満なら不動産などは返してもらっていい。★也「自立するよ、親父たちも自分の家賃は自分で払え。親父のカードは返すよ。」これで本気で自立心が★也に芽生えたと思った。
彼の言葉を聞いて、仕事はこれで終わりと確信出来た。彼は、彼の出自をこれからは大事にして、新しい生き方をするようにしなければはらない。すねかじりで、僕達の子のふりをして、世の荒波は乗り切れない。
16.特別養子の出自は隠されているが、本籍から、弁護士に頼んで、探してもらえる。終わりにしよう。
17.僕の弁護士に★也との関係を依頼。
特別養子契約、僕が40、妻37の時。今、僕は78です要支援、間質性肺炎。妻は75である。コロナ感染症時代、経理事務から帰途、足をケガ骨折。手術後遺症で要介護3の認知になる。短期記憶機能を失う。僕との経験時代のことは覚えて話せる。
妻と僕は、自由になった。不思議と仕事を終えた満足感が湧く。会社経営は55年、養育は37年、いづれも妻と僕との同行2人。よく山を登り切った。
50年前、社員第1号、石垣島出身の金城(突然の病で今は故人)の案内で、クリスチャン洗礼を受けていたことが、それ以来、空海の弟子、ガンジーの弟子、神道の「みぞぎ」と、心の底に眠っていた塊が、湧き上がるのを感じた。
人の出自を法で塞ぎ、わからなくして育てる、それは、その子の、基本的人権の侵害で、あると僕は思う。僕と妻は、★辻ひとみさんの養育サポーターであって、真の親はではないのです。★★也の養育サポーターなのです。
特別養子制度はあまりにも秘密主義で育児体験者として「オープンに育てる」ことを提案します。人はありのままに生まれ育つのですから!、この記録を公にしたのです。
いきさつ
- 新宿区役所の前にお願いしますと書かれた男の子が置かれていた。昭和23年のことである。
- 区長は、都福祉課の制度で、その子を阿佐ヶ谷の養護施設に預け育てる事とした。
- 紙には母の名(辻ひとみ)が書かれていた。役所は、母を見つけ出し、母がその子を捨てた理由をただした。母は小柄な女性で、ひどく悩み、生活苦で、その子を産んだ父親とも別れ、(父は子の肌から東南アジア系の男と推察されるのみで、定かではなかった。)、育てる気力、体力なく、お金もなく、途方に暮れて、ヘソの尾を切り、自力で産んだ子を、服にくるみ、その子の名前(★也)、育てる人を探してくださいと書き、役所の前に、置いたと都の職員に語った。
- ★也は、こうして私たちと出会う事となる。
- 私と圭子、妻の父が亡くなった、昭和25年。圭子の母は結婚後まもなく亡くなった。亡くなった知らせはを聞いて、車で病院に向かった、車中、むせぶ妻の耳に、時が慰撫するのか、カーラジオから、おふくろさんの歌が流れてきた。おふくろさんよ♪おふくろさん〜妻の咽びから、滝のように涙がこぼれ、窒息するかと心配するほどの嗚咽が、病院まで続いた。
- 出会った★也は、目がくりとした、可愛い子だった。
- 自尊心の強い子であつた。その気性に身体がついていかなかった、心の葛藤はいかばかりか、僕の想像を超える。
- 社会文化系IQ80、図形創造系140、数学系は独創的解答、音楽は絶対音感の持ち主。
- 40過ぎから、自力を発揮すると確信する。
- 彼が40過ぎる時は、僕はもういないかもしれない。妻は、老人ホームで穏やかに笑っているだろう。
- 天は、圭子に、足のケガ以来、後遺症に、進行性核上性麻痺を送ってくれた。もう、心配ごとに悩むことはない、穏やかいに、笑って僕のまつ世界にいづれくるだろうと思う。
- 養育記2023.5.25