01 モスクワ愚連隊
Contents
五木寛之の「モスクワ愚連隊」のモデルの一人となっていた
神谷昭は
五木寛之にモスクワ愚連隊の
モデルの一人となった
02 恋人はユダヤ人
ソ連経由フィンランドへ
ethnicity, language, kindness
Train arrives at Helsinki station from Russia
毎朝、彼らは素性もわからぬ僕にいう
「君が好きな期間だけ泊って行け」
女の子はズートいて!何日いたか記憶がない。
ロッジでダンスパーティーもした
僕がイギリス滞在中会いに来た。
プロポーズされた。
合うは別れのはじめだった
家族で言葉の半紙をした。
日本語の単語と似ているという。
アジア系だと語った
「フィンランド人がフン族の末裔である」と。
First encounter
with Jews
ユダヤ人との初めての出会い
彼女たちは
「私がユダヤ人は嫌いか?」と聞いた。
僕は
「あなたたちが初めて会ったユダヤ人だと」。
彼女たちは別れたお後も
彼らは僕がイギリスにいる間に
何度も手紙をくれた。
僕は「ユダヤ人問題」を知ることができた。
Free スエーデン
Race changes from the environment
ポーランド
Poles thank me! why
Poles thank me! why?
東ヨーロッパに追いやられたユダヤ人が多い。
ナチの傷は深い。
当時、イギリス滞在後、1966年、
僕は東側(共産圏)を旅した。東ドイツからポーランド、チェコ、オーストリア、スイスへと抜けた。
ワルシャワの駅で,私に声をかけた若い女性がいた。日本人に合うのが初めてだと笑った。私たちはお互いに英語は苦手でしたが、しかし、手ぶりも加えて話しました。
若い彼女はふっくらした顔で優しい感じの人でした。赤い冬のコートを着ていました。 彼女は僕に微笑んで、家で食事をするように僕を招待しました。お母さんと2人暮らしでシンプルな生活のようでした。 黒パンとスープの夕食を彼女の母と一緒に食べました。
僕たちは、お互いに微笑むだけで多くの時間を過ごしました。 彼女は何度も「ありがとう」と言ったのを今でも覚えています。彼女はユダヤ人でした。日本人が「ポーランド人孤児を救助したこと」や「杉原がユダヤ人の命を救ったこと」に感謝していたのです。
その夜、名前も住所も聞かぬまま、チェコ行きの汽車に乗りました。共産国では電車もホテルも予約制で彼女にはお礼の手紙すら出せませんでした。
ユダヤ人の巨星と会う
The founder of Kibbutz
★2年も後半でした、フランスからイタリヤへヒッチして、大洪水のフィレンツェからギリシャへフェリーで渡りました。船上で、目に焼き付くような「巨星人」を見ました。吸いつけられるように、話をしました。
彼はイスラエルキブツの創始者のメンバーだと、自己紹介してくれました。彼は、船がアテネにつくまでいろいろと話をしてくれました。別れ際に、「僕もキブツにこれから行きたい」と言うと、喜んでと言いました。
しかし、「イスラエルに入国したら、以降はアラブ諸国に入ることができなくなります。」「あなたは陸路、トルコからイラン、アフガニスタン、パキスタン、インド経由で、日本に戻る計画でしょ?」「 イスラエルとアラブ諸国とは紛争状態です」「陸路頑張ってと」僕と握手をしました。
ヨーロッパの記憶に残る人たちはユダヤ人ばかりでした。
03 共産主義を捨てる
東ドイツ、東ベルイン、
Real communism was the management of fear,
1966年、外国人は1日だけ東ベルリンに入ることを許可された。 駅の改札をくぐると、警官が巡視しているのが見えた。地元の若い人たちは壁の後ろに隠れながら遠くから私を見ていた。
西に戻る途中、改札係の写真を撮った。 「やめろ」の声が聞こえた。 何人かの男が私の手をつかみカメラを取った。 私は別の部屋に連れて行かれた。 「カメラを返して、パスポートを返して、フィルムを返してください。撮った写真は捨ててもOKです」と私は言った。
次に、カメラの開け方を教え、 カメラの裏表紙を外し、フィルムを光にかれらがさらしました。 1時間半後、改札から「戻る」ように言われました。
駅長の顔を今でも鮮明に覚えています。 私は逮捕を免れました。 共産主義は独裁で教科書とは異なります。現実の共産主義の恐怖の管理を体験しました。
なぜマルクスの予言は失敗だったか…
『資本論』の問題点 (橋爪大三郎)
マルクス入門と資本主義の未来(5)
『資本論』の弱点
ぼくの見たもの、聞いたもの
暗い若者達、逃げたいと言ってきたこと。
1966年東ベルリンにて
04 イギリス
介護ハウスボーイ
イギリスの上流家庭から世界が見えました。
Conversation is communication
Communication fostered democracy.
考え方を伝え合うことが民主主義を育てた。
① Cross the Strait of Dover.Advertisement in the newspaper “Times”“Japanese students want a job” AKIRA.
ドバー海峡を渡る。
新聞タイムズに広告。
日本の学生が仕事希望。
アキラ。
②私の仕事は車いすの人の介護でした。ドイツとの戦争で脊髄損傷を負ったサー・アルベリー大佐の車椅子を押しプールに連れて行くことでした。イギリスではマニュアル車がすでに製造されていました。
③大佐は大きな邸宅に一人で住んでいました。彼の妻はキリスト教伝道俳優で、子供たちは学生寮に入っていて、いつもは、料理を担当する女性、私、そして大佐で3人でいました。
大佐は私のへたな英語エッセイを訂正しながら読むのが好きで、小説家だったのでエッセイを楽しんでいたのでしょう。彼はチェスも大好きで、私はチェス相手になりました。会話なしのアイコンタクトで心がわかりました。
④大佐の奥さんが帰宅する日はパーティーです。多くの友人が昼食と夕食に来ます。政治、哲学、芸術などなど、会話は本音トークです。お互いの考え方を伝えあうまさにコミュニケーションなのです。当時、終戦わずか20年です。日本人に敵対する人が多く、質問も大変でした。私は一生懸命英語を使い、反論し、日本の考え方を説明しました。幾たびか、会話を重ねた結果、お互いを理解できるようになりました。別れにシェイクスピアー全集をくれた。大きな涙を流して言った、「日本人を私は本当に理解した」と
ロンドンで友達になった
村山邦利はユダヤ人の男のハウスボーイだった
会うたびに、ユダヤ人の話しを聞いた
愉快だった。
僕はバリバリのクリスチャンの家庭で
彼はバリバリのユダヤ教の家庭でしたが、
イギリス人とユダヤ人は不思議な蜜月なのです。
フランス
世界は水だよ
the world is water
フランスでアドバイス、世界回るなら水事業だ
加賀見政之画家
僕の「日の丸リュックサック」へ声がした。「泊まりたいなら来いよ」。2人の画家と同居を始める。毎晩、ワインを飲みながら、多くの問題について話しました。
ひとりの画家(加賀見政之、兄は東京ディズニーランドの創設者)は、ジョン・レノンの妻、オノ・ヨーコと当時同じような流れの現代美術系の画家でした。
その時代、ビートルズが登場し始め、ヨーロッパの若者はロックの中にいました。アートでは常識を超えることを目指す「ハプニングムーブメント」がありました。彼はフンデルトヴァッサーを支持し環境を重視するアートを強調していました。
もう一人の画家(菅野)は、
日本の伝統的な「西陣織」の着物柄を描くデザイナーで、この分野では有名でした。二人はフランス船で日本からマルセイユに到着し、それぞれの特徴を持った三人の話し合いは革新的で面白く奇妙でした。
どういうわけか、フランスの風土はみんなが「政治、哲学、芸術」について話すのが当たり前でした。女性のファッションは、母親のお古でもリメイクして、時代に合うように変え、個性にあった衣装に自分で変えるのでした。同じファッションは一つもないのです。
“politics, philosophy, art” and “individualism”
日本とは全然違う「個性主義」の世界です。
05 スイスの謎
スイス four languages
国民皆兵国家。
彼らとはヨーロッパのあちこちで出会った。
戦う市民は背骨がある。
スイスは国民皆兵です。繰り返す戦乱の中で、永世中立を守るのは国民一人一人の団結の結果だと痛感しました。
Switzerland is a national soldier. In the repeated wars, I realized that maintaining permanent neutrality was the result of the unity of each and every citizen. “
06 ギリシャ(神々)
The youth hostel was a gathering place for information
ギャラ1日500ドル。
Movie appearance.
日本で2年間稼いだ分が1日だ
僕と黒人の作家と白人が雇われた。
黒人の一言が印象。
Are you on the white side?
Five days later, the black said. “I need $ 1000 a day with risk”
The next day, “we were fired”
“In the future world, skin color will be a problem, not ethnicity.
Can Japanese join hands with blacks? “
He asked with a straight face.
日本人は黒人側につくか?
白人側か?
黒人作家が僕に詰め寄る
07 クレタの生活
Head to Crete(クレタ島)
若いアメリカ人が集まる島
American said、 During the Vietnam War.
Journey before being drafted
American youth gather
During the Vietnam War, they were worried about the lives of them and their companions
I came to understand the feelings of people in the world.
Every day in Crete began with meditation while looking at the sea.
a man was with an American poet and a female meditator
I lived on Crete during December 1966.
I became aware of myself in the world from the isolated life of Japan.
The face and map of the world were input in my head.
I was heading to Asia via Istanbul.
クレタの生活で私は瞑想のすばらしさを知りました。孤立した日本の生活から世界の自分を意識した。頭の中に世界の顔と地図がインプットされた。これからイスタンブール経由でアジアへ向かう。
Greek children.
December 31, 1966
日本人が珍しいので子供たちが集まる
08 イスラムに死す
No knowledge about islam
イスタンブール
東西の接点、イスタンブール
塩焼の魚と出会う 1967年1月1日
イスラム世界、僕は異教徒
イスラムについての知識がない
彼らを理解するセンサーがない
フランス人
「戒律に触れて死んだ、僕と同じ地球ヒッチハイカーだ、同志だ」
Enter the Islamic world
The changing world
I was a heathen
No knowledge about islam
There were no sensor to understand them
イスラム世界、僕は異教徒
イスラムについての知識がない
彼らを理解するセンサーがない
旧市街を歩く。女性がいない。沢山の男たちがいる。塀で囲まれた一区画がある。門があり警備の兵が銃を持つ。女性たちが建物の中に沢山いる。僕が入ってしばらくして出てくると、男たちがニコニコ笑って僕に近づき手を握る。彼らのあこがれた男と評価されたのだろう。とりあえず仲間になっていた。
イラン
To Tehran on Bus (テヘラン)
no cross-border railroad
From Istanbul to Ankara, passing south of Soviet Armenia and grabbing the southern tip of the Caspian Sea to Tehran
イスタンブールからテヘランへ
アンカラを経由してバス使用、
国境越えの鉄道無し
イスタンブールからアンカラからソ連領アルメニアの南を通りカスピ海南端をかすめてテヘランへ
パーラビ王政
当時は旅仲間では「ミニスカと銃剣のイラン」と言われた。
ほどなく、ホメイニイスラム革命起こる
Ignorance is a sin.
日本から来た男と偶然出会った。「ラマダン中は気をつけろ!食事は朝と夜のみ。間違って食べると危害に合うよ。僕が外国人だからと認めた男がやられた。親切が彼の人生を終わらせた。申し訳ないと思う。無知は罪だ。」僕は彼にアドバイスした。
The bus did not go to Afghanistan and cholera was occurring. From the border town to the port town of Karachi and then to India
バスはアフガニスタンへ行かず。コレラ発生中。別のバスを見つける。国境の町から港町カラチへ、そしてインドへ向かう
09 ヒンズーに浮かぶ
Modern islands floating(インド)
Eternity were scattered.
Countless Siddhattha.
Huge “spirit of kindness”
永遠の中に浮かぶ現代島が散在。
無数の Siddhatthaがそこにはいた。
巨大な「親切の精神」が
インドの大地に生えていた。
タイ
Thai countryside
children and water
I realized that my passport is the Bible.
I didn’t have my passport.
10 喜望峰へ
山賀の夢と死
帰国後
集中的学問のすすめ時代
社長業の合間に88番巡礼
空海研究体験
空海は、平安時代初期の僧。
諡号は弘法大師。真言宗の開祖。
俗名は佐伯 眞魚。
日本天台宗の開祖最澄と共に、
日本仏教の大勢が、
今日称される奈良仏教から
平安仏教へと、
転換していく流れの劈頭に位置、
中国より真言密教をもたらした。
イエス(景教)の影響大
八潮コミューン
村山邦利と共同事業
英国で知り合った男
共産主義経済を目指すなら
・他人に対する愛
・自己犠牲が不可欠
・共同生活ができるか?
実験的コニミューンを行うべきと
神谷&村山は主張
30人近くが集まるが
日本型キブツを実践、だが失敗。
当時は安田講堂が炎上していた。
学生社長となる(㈱サニーダ創業)
設立した新会社は
「水の課題解決」をテーマにしました。
日本には問題が山とありました。
問題解決法を新技術開発から始めました。
アフリカ喜望峰は時間的に無理となった